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2012年5月

2012年5月29日 (火)

東電の責任、国の責任、国民の責任

 
 東電の収益構成は、企業62%、家庭38%だが、利益構成は企業9%、家庭91%であることが明らかになった。なんと企業用の電気料金は家庭用の半分で、企業用の割安料金の差額は家庭で負担していたわけだ。政策的に、企業に対しては料金を安くするために電力会社の参入を認めて競争させている結果、東電は安くせざるを得ない。一方、家庭用は安定供給を建前に国が東電の独占を認めている結果、東電はすべてのツケを家庭に回しているのだ。

 しかも電気料金は、総括原価方式と言って、原価に3%の利益を自動的に乗せてよいことになっている。原価が増えれば、値上げを要求することが許されている。人件費や福利厚生を目一杯に膨らませれば、利益も膨らむという経営者なんて要らない企業なのだ。そして今また、火力発電の燃料代を理由に7月からの値上げを要求している。

 国策として、電力会社を保護する必要のある時代もあったかも知れないが、今や企業に対して競争電力会社を認めて何の問題もないのだから、家庭用も競争させて何の問題もない。東電が甘い汁を吸えなくなるだけだ。

 昨夜のテレビ番組「たけしのTVタックル」で、猪瀬東京都副知事が吠えていた。周りの人の意見を聞かないところは、ちょっと嫌な感じがしたが、やはり鋭い指摘をしていた。

 政府はなぜ東電をJALのように破たんさせなかったのか、という話題になった。破綻させれば投資家や銀行が損をするが、国民への負担は減るからだ。それは財務省は政府系銀行への影響を考え、経産省は天下り先のことを考えたため潰さなかったと誰かが指摘したとき、猪瀬氏が噛みついた。それは事実かもしれないが、そんな陰謀論みたいなことで溜飲を下げていても仕方ない。問題はいかに東電の横暴を食い止める仕組みを作るかだと。そして事実彼は、発送電分離による競争原理の導入を、すでに政府に要求していた。しかも東京都は自前の火力発電所を設けると発表した。その素晴らしい実行力には感心した。

 東電の体質は、震災後も全く変わっていないし、原発の責任も全くとっていない。震災復興が進まない理由の一つに瓦礫の処理が遅れていることがある。市民の反対で受け入れる県が少ない。小出裕章氏は、東電が出したものだから、福島第二原発に送れという。

 政府も、原発ありきでしか行動していないから、いまだに原子力規制庁は実現しない。おそらくいかに骨抜きにするかを、推進派だけで協議しているのだろう。事故の恐ろしさも感じていないようだし、リスク管理の甘さへの反省もない。ストレステストの基準も付け刃で、現実的な対策にもほとんど着手していないのに、再稼働を急ぐ。国民の安全より企業の利益優先の方針がはっきりしている。

 それは情報操作にも表れている。SPEEDIの情報をもっと早く発表していれば、南相馬市の人たちが飯館村に避難して被ばくすることはなかった。ところが、その情報を米軍には3月14日に流しており、米政府は直ちに80キロ圏外への避難を自国民にさせる措置を取った。日本政府は国民より、アメリカの方を向いていることがはっきりした。と小出氏は述べている。(「騙されたあなたにも責任がある」幻冬舎2012)

 この国が今までのやり方で原発を継続し、再び事故を起こしたならば、今度こそ責任はそれを許した我々にある。

2012年5月26日 (土)

映画「英国王のスピーチ」を観た

 吃音症のためスピーチは愚か、原稿すらまともに読むことが出来ない気の弱い王子が、国王になってしまい、国王ゆえのプレッシャーとプライドに悩みつつも、周りの人に助けられ、弱点を克服するというストーリー。

 英国王という余りにも特殊なシチュエイションに、果たして共感できるのか疑問はあったが、最後に問題のスピーチが始まった時は、自分のことのようにドキドキし、無事に終わった時は、素直に感動した。

 人間、得意なこともあれば不得意なこともある。しかも立場的に不得意だからと言ってやらずに済ますことが出来なければ、それをある程度は克服しなければならない。そしてその困難を努力して乗り越えたときの喜びは、国王であれ、一般人であれ関係ない。

 王妃である夫人と矯正にあたったローグ氏の力が大きいが、国王自身が恥を忍んで、プライドのためにローグ氏に反発して訓練を中断することを繰り返しながらも最後は、何の公的な資格も持たないオーストラリア人のローグ氏に信頼を寄せ、心を開いたことが良い結果をもたらした。裸にならなければ、本当の人間関係は始まらないし、助けてももらえない。

 ストーリーは実話で、英国王とは現在のエリザベス女王の父にあたるジョージ6世である。第二次世界大戦が始まる直前の1936年に国王に即位した。そして問題のスピーチとは、1939年にヒットラーのドイツに対し宣戦を布告し、国民を鼓舞するという重要な演説だった。

 普通このような話は個人の恥になるからオープンにはされないが、ましてや国王のことでは国の恥にもなりかねないことなのに、映画にしてしまうところが、すごい。王室も国もそれを許してしまうところがもっとすごい。イギリスの懐の深さ、価値観の違いみたいなものを感じる。克服できれば恥ずかしいことでも何でもないということなのだろうか。いずれにしても日本では考えられない。

 主演のコリン・ファースは、気品も知性もありピッタリのキャストだったが、吃音症に苦しむ国王を見事に演じていた。またローグを演じたジェフリー・ラッシュも、温かみのある人間性を良く出しており、味のある演技がとても良かった。

 国民の期待を一身に背負っている国王とは、そのプレッシャーの大きさは比較にならないだろうが、自分にとっても人前で話をすることは本当に難しい。あがってしまって頭が真っ白になり、次に何をしゃべるのか分からなくなったことはこれまでに何度もあった。

 国王の場合は、吃音症だったからもっと深刻であったに違いない。映画では幼少期のストレスなどが原因のように描かれていた。長年に渡り溜り固まってしまったストレスを解放し、心のゆがみを矯正するところから始めなければならないから大変だったと思う。

 
 自分の場合スピーチは、練習と慣れ、そして年齢をとるごとに増してくる図々しさで、次第に何とかなって来たが、今でもスピーチを控えたときの憂鬱さや上手く行かなかったらという恐怖感は多かれ少なかれ変わらない。今から心配してもしようがないが、次にあるとしたら、息子の結婚式のスピーチだろうか。

2012年5月18日 (金)

人口減少時代の成長戦略

 日本の国内総生産(GDP)は中国に抜かれ世界第3位になったが、豊かさの指標は一人当たりのGDPであって、中国に負けているわけではない。一人当たりGDPが落ちなければ、日本が経済的に困ることはない。しかし日本は人口減少時代に入っている。GDP=[一人当たりGDP]×[人口]だから、当然GDPは減少する。

 今日の日経新聞のコラム「大機小機」によれば、人口の変化は、経済成長率にも大きな影響を与えるという。
経済成長率=[一人当たりGDP伸び率]×[人口増加率]であり、今後30年間の人口増加率は、年平均0.5%と予測されるので、成長率を0.5%低下させる要因となるという。

 さらに、
一人当たりGDP伸び率=[生産年齢一人当たりGDP伸び率]×[生産年齢人口比率変化率]
であり、言い換えれば労働生産性伸び率と労働参加率が要因である。
 ここでは人口減少が問題ではなく、人口構成、高齢化による労働参加率の低下が問題である。日本の今後の労働参加率は年平均0.5%減と予想され、成長率に影響する。

 人口要因で、年平均1%程度の成長率低下要因となる。そこで、人口減少下での成長戦略のポイントとして、下記の3点を挙げている。

 ①「一人当たりGDP」を成長目標にすること。
 ② 労働参加率を上げていくこと。(女性、高齢者、外国人の労働参加を進める)
 ③ 労働生産性を引き上げていくこと。(人的資本の質を高め、労働移動を流動化させて、高付加価値の成長分野に労働力が流れて行くようにする必要。)

 これはこれで説得力があるが、あくまでも生産面のGDPの議論である。経済成長を考えるには、支出面のGDP、分配面のGDPについても考える必要がある。分配は所得であり、基本的には生産に等しいが、支出は需要や景気などによって変わる。GDPは分配と支出が等価になる経済状態を想定するから、支出水準が需要を通してGDPを決定していく。従って、経済成長あるいは景気上昇にとってはあくまでも需要がカギである。

 支出面のGDP=民間支出+政府支出+純輸出(輸出-輸入)   *輸出は外国消費
   民間支出=民間消費(個人消費)+民間投資+在庫変動
   民間投資=民間住宅+民間企業設備
   政府支出=政府消費+公的固定資本形成(政府投資)

 朝日新聞の夕刊は、12年度1~3月期実質GDPが前期と比べて1.0%、年率換算で4.1%増になったと報じていた。エコカー補助金効果による個人消費の増、震災復興の公共投資の増、輸出の増などにより、日本経済は昨年夏から緩やかに成長し始めたようである。11年度のGDPは名目470兆円で1.9%減だったが、12年度は、プラス成長になりそうだ。

 ただし物価動向は、10四半期連続のマイナスでデフレ基調はなお続いているので、民間投資がどうなるかは楽観できないようだ。

2012年5月13日 (日)

セザンヌ展を観る

 先週、国立新美術館でセザンヌ展「パリとプロヴァンス」を観た。昔から一番好きな画家だったが、久し振りに本物を、しかも約90点もの数をまとめて見ることが出来、改めて感動した。セザンヌの絵は、感覚的に美しいというだけでなく、どこか理知的なイメージが漂う。それが自分の好みにも合っているのだが、それが一体どこから来るものなのか少し考えてみた。セザンヌの絵の特徴として思いつくのは、構図、色使い、筆致、そして全体的なイメージだ。

 先ず構図だが、垂直・水平の線や面的な要素は、これ以上ないほどにバランスが突き詰められている。しかし単調なバランスではなく、斜めの線や曲線が混じり、安定感の中にもどこかに動きを感じさせる。描かれる対象の良さは取り込みながらも、画家の画面構成の強い意志を感じる。

 色使いについては、肖像画に代表される古典的な絵画とは違い、絵の具を塗り込めたような重苦しさがない。印象派の影響もあり、色も明るく濁っていない。光の効果も十分に考えられている。しかし色や光が前面に出ることはなく、適度に抑えられているため、落ち着きを感じる。色の配置のバランスもいい。

 筆使いは、短かく太い斜めの筆跡で全体を覆う「構築的筆致」と呼ばれる独特の手法で、全体が柔らかく優しい印象になっている。このタッチで描かれたサント・ヴィクトワール山は自分の最も好きな一枚だったのだが、今回気づいたのは、晩年の作品ではこの筆跡は見られず、もう少し大きな破片のような面の積み重ねになっていたことだ。

 全体のイメージは、晩年の方が対象を描写しながらも、細かい所は捨象し抽象度が進んでいる。にも拘らず、同じサント・ヴィクトワール山で晩年のものは、よりおおらかでダイナミックでのびのびしている感じがして、こちらの方が今はシックリ感じる。対象のディテールから解放されながらも、対象の持つ存在感は失われていないから、かえって強い印象を与える。それでいて油彩とは思えない水彩のような軽やかさも持っている。

 セザンヌが亡くなる1906年に描かれた人物画である「庭師ヴァリエ」でも、ディテールは顔の表情含めて何も書かれていないにもかかわらず、実に生き生きしているのが不思議だ。この対象の存在感が、抽象絵画では得られない魅力だと思う。このような存在感は写真のように忠実に描いたからと言って得られるものではない。

 そもそも近代の絵画は、写真との相克の中から新しい生きる道を切り開いてきたと言える。カメラの原理は17世紀からあったようだが、その光学的映像を記録する方法がなかった。まさにセザンヌが生まれた1839年に初めて映像の記録方法が考案され、これを足がかりとして、銀塩写真記録法の普及が始まったようである。この写真の普及が肖像画などを生業としていた画家を失業の危機に陥れた。

 写真と同じことをしていては飯は食えなくなったのだ。写真のような対象の正確さを追及しても、その苦労は認められたとしても、写真に勝てるはずもないから意味がない。その危機感の中から印象派が生まれたのだと、モノの本に書いてあった。

 人の認識は関心や価値観によって変わる。同じものを見ても違うイメージを見ている。知識や観察度合いや見る目によってもイメージは変わる。その新しいイメージを対象から抽出して記録するのが近代の絵画というものかもしれない。むしろ人間が感じた感覚・印象・イメージに忠実に記録することだ。これが、展覧会の解説にあったセザンヌの言う「感覚の実現」ということなのではないか。

 展覧会は、パリとプロヴァンスというセザンヌゆかりの北と南の土地の対比の中から、作品の軌跡を捉え直そうという企画だった。1839年プロヴァンス生まれのセザンヌは、1860年代のはじめに銀行家の父親の反対を押し切ってパリに出て、画家としての修業を始めるが、余りパッとしない。

  70年代に登場した印象派の影響を受け古典的な絵画から離れるが、セザンヌは印象派の感覚だけの絵画に満足しなかった。新しい絵画を生み出すべく奮闘するが評価は得られず、80年代に父親の死を契機にプロヴァンスに戻り孤独なまま絵を続ける。その後ようやく高い評価を得るようになったが、妻との関係も含め相当な苦労を重ねたようだ。

そんな人間セザンヌの履歴も今回初めて知ることができ、また一段とセザンヌを好きになった。

 

2012年5月11日 (金)

男の料理教室

 不就労日の木曜日を使って今日から料理教室に通い出した。と言っても月1日だけで、12か月のコースの、今日はその第一日目。お料理初めてのクラスで、しかも男のみのクラスだ。第2木曜日の10時から12時15分までと決まっている。地元にはないので、電車に乗って出掛けた。

 10分前に到着すると、もう皆さんお揃いで、エプロンと三角巾に身を包んでいる。同じ年回りと思われる方が多かったが、若干上の方もいた。慌てて受付で手続きを済ませ、席に着く。

一つの調理台に4人ずつ座り、約30人の生徒が、正面の講師の調理台の方を向いている。講師の調理台の上には、大きな鏡が付いていて、後ろの人にも手元が見えるようになっている。

 いよいよ、講義が始まった。まず講師や助手の先生3人の自己紹介の後、各調理台のメンバー相互に自己紹介をさせた。優しそうな人たちばかりで安心した。事前に配られた今日の料理のレシピを解説したペーパーに従って、先生が実際に一部をやって生徒に見せ、生徒が後でそれをやってみるという方法で進んだ。今日の料理は、鳥の照り焼き丼と和風サラダだったが、包丁の使い方、お米の砥ぎ方から、野菜や肉の切り方、調味料の量り方、肉の焼き方など、丁寧に教えてくれた。

 実際やりだしてみると、先生のやったことを覚えておらず、メモした中にも書いていないことが多く、質問だらけだった。先生に聞きながらも、何とか初めての料理が出来たことは嬉しかった。また、それなりに旨かった。レシピ通りに作れば、旨いのは当たり前なのかもしれないが。

 今まで、料理などしたことのない人間としては、料理の楽しさの一端が伺えたし、料理へのハードルが下がったことは良かった。これからは家にいることが多くなるから、家事の手伝いだけでなく料理くらいしないと、かみさんに申し訳ない。かみさんに、リタイアはないから。

 早速今度の日曜日に、その料理を家でするように、かみさんから言われている。そういえばこの教室のパンフレットを持ってきたのはかみさんだった。深謀遠慮があったかもしれないが、自分もその気十分だったのだから、それはそれでいいじゃないかと思う。

2012年5月 9日 (水)

日本の閉塞感打破への第一歩

苫米地英人「『日本』を捨てよ」2012(PHP新書)を読んだ。

 問題山積の現在の日本で、政治家の怠慢や官僚の横暴を嘆いていても問題が解決するわけではなく、さりとて素人の我々が解決策を提案できるわけでもなく、「どうしたらいいのかわからない」閉塞感、無力感が漂うが、それでも何とか、考えることをやめないように、こうした本を読み続けている。

 著者が、現状を打破するために注目したのが、「なぜ日本人は大災害が起きても略奪や暴動に走らないのか?」「なぜ日本人は政治家や官僚に文句を言う割には、デモさえ起こさないのか?」ということだった。

 日本人は支配者に従順な奴隷のようだ。そうなった要因は、儒教や村社会の相互監視システムや一神教の不在だという。現在でもそれらが生きていて、個人が自由を放棄することで、特定の人間や集団だけに有利な社会構造が生き続けてしまう。すべての権威は人間が作ったものだから、絶対的なものではない。個人の可能性を潰されることに我慢せず、「もっとやりたいことをやれ」と著者は言う。

 最後に著者は、具体的な政策として道州制を提言している。中央集権の国家体制を崩すことが、個人が自由を取り戻す第一歩になる。全く賛成だ。

一神教が抽象思考の元だというのは、よくわからない。特攻隊に消えた若者に洗脳されたとはいえ愛国心がなかったかどうかも疑問。

以下要約。
 

■なぜ日本人は立ち上がらないのか

・日本人は権力者に都合よく飼いならされた奴隷だから。
・3つの要因。儒教による洗脳、村社会の相互監視システム、超越的な一神教の不在。
・儒教は、君子が統治する秩序ある社会の確立のため、人民に従順に従うことを要求。
・集落間の往来が少ないため「村八分」を抑止力とする強力な相互監視システムが発達。

・一神教のような人間同士の関係を超越する視点が持てないため「他人の目」を恐れる。

・特攻隊を支えたのは愛国心でも敵国に対する憎しみでもなく、従順な奴隷としての性質

■日本人はなぜ幸福を感じられないのか

・日本経済は世界の他国に比べてそれなりに元気なのに、日本人には元気がない。
・日本は自己実現機会の平等がない封建社会で個人の可能性が予め限定されているから。

・少ないチャンスも活かさず自己実現をあきらめ自分の分際に留まり封建社会を固定化。

・それを誘導する日本の教育。自由な発想を禁じ秩序の厳守、秩序内での上昇を促す。

・判断も合理的客観的な議論の結果でなく、人物や服装による情状酌量の結果。
・ディベートのない多数決による議決は、多数派の独裁であって民主主義ではない。
・アンフェアで不健全な日本。格差が大きく、えげつないけれどもフェアな米国。
・フェアネスとは、神と同じ契約関係にある信徒同士は対等の意味。異教徒は差別対象
・フェアネスのない日本では人間は対等ではなく、成功者・権力者は特別な君子たち。

■日本という枠組みを疑え

・日本人はなぜ日本という国を信用し、日本にしがみつくのか?
・原因は儒教洗脳と盲点(ストコーマ)の産物。日本国、日本国民といった概念も幻想。

・儒教の「人格者でなければ支配者になってはいけない」が「支配者は人格者」に変質。

・清廉潔白は政治家や官僚の能力とは別だが、「立派な人であるはず」という信仰。
・見たくない現実を脳は認識できない。目の前にあっても気づかないという盲点。
・「現状は続く」「自分は大丈夫」という根拠のない強い思い込みが支配する。

・国民国家は近代の産物。欧米で17,18世紀。日本では明治以降。近年国民が分裂の兆し
・国民に帰属意識や愛国心を抱かせるために教育とメディアが活用された。
・米国は日本人を軍国主義から引き離し、二度と米国に敵対しないように洗脳。
・米国は最近、日本に戦争を手伝わせるために日本人の愛国心を調整し始めた。
・米国内の愛国洗脳はもっと徹底している。放送ネットワークや映画産業はそのために。
・サンフランシスコ講和条約の上では、日本はいまだ自治区であって独立国ではない。
・日本人とは人種ではなく「日本方言を話す人」「日本で義務教育を受けた人」のこと。

・日本が豊かになった現在、日本という枠内で利害を考えることは視野が狭すぎる。

■正しい「日本」の愛し方

・日本人は自由を手に入れ、その可能性を最大限に発揮し、幸福な人生を歩むべき。
・アンフェアの源泉となる特定の人々が作る組織の権威を否定し、無力化すること。
・自由とフェアネスにつながる道州制を採用して政策や社会デザインを競争させるべき。

・さらには携帯電話会社を選ぶように土地に縛られずに政府を選ぶシステムを。
・米国では連邦を、EUでは国を自由に選択できる。いずれ国境を越えた人生設計が一般化

・日本を愛し日本を救いたいと思うなら、より高い抽象度、世界から日本を見ること。

2012年5月 4日 (金)

映画「アーティスト」を観た

 「アーティスト」は、やはりアカデミー賞作品賞を受賞しただけの価値がある素晴らしい映画だった。伸び行く新人の輝きと落ちぶれるベテランの悲哀という普遍的なテーマをラブストーリーで描いたもので、ストーリーはシンプルだが、フランス人がハリウッド・スターを演じる難しさをものともせず、内容に合ったモノクロサイレントの映画をベースに最小限の字幕と音と音楽だけで、テーマを表現し切っているところが見事だった。言葉が少なくても、メッセージもフィーリングも十分に伝わり感動できた。

 
 ハリウッドの大スターに憧れたファンの女性が、ひょんなことから大スターの引きもあって、エキストラから次第に新人スターに上り詰めていく。そして彼女の大スターへの憧れは愛に変わっていく。一方、大スターも明るく輝く若い女優にほのかな愛情を持ち始める。

 時代はトーキーが台頭し始めた頃で、映画会社はすべての映画をトーキーに切り替える決断をする。サイレントにこだわる大スターは自分の資産を注ぎ込んで映画を監督・主演するが、新人女優のトーキー映画に押され大失敗。しかも1929年の大恐慌で資産も失い、妻からは追い出される。絶望のどん底の狂気で、彼は自分が生きてきた証である映画のフィルムに火を点け火事を引き起こす。老兵としては、その絶望的な気持ちは少しは分かる気がする。

 愛犬の活躍で救出され、意識のないまま病院から新人女優の豪華な家に引き取られる。意識が戻り素直に喜ぶ大スターであったが、オークションで売ったはずの彼の家具やコレクションが実は彼女がすべて買い取ったことを知り、屈辱感でまたも絶望に陥る。そして火事で焼けた自宅に戻り、自殺を決意する。この屈辱感もプライドを傷つけられたことのある人間には良く分かる。

 
 最後は彼女の機転で立ち直るのだが、その秘策とは、彼が喋りでイメージチェンジをすることではなく、彼のイメージを変えないもう一つの得意技にあった。ロートルにとっては今さら新しいことに挑戦して成功することは難しいが、今までの延長線上に時代と折り合える何かを見つけることが成功の鍵だというメッセージを感じた。

 また、時代に対応しなければ生き残れないこと、過去の栄光やプライドを捨てなければ時代には対応できないこと、時代に対応できないならばさっさと後輩に道を譲るのが大切なことを改めて認識させられた。

 映画の中の映画で、没落するサイレント映画のタイトルは「愛の涙」、上昇する新人女優の最初のトーキー映画は二人の愛のきっかけとなった「付けボクロ」で、ハッピーエンドの最後の映画は「愛のきらめき」というのもお洒落で楽しかった。

民主主義の赤字

 昨日の朝日新聞の社説で、「民主主義の赤字」という言葉を知った。国民が民意を示しても、それを受け止めた政策が返ってこないことを指す。社会の行方を決める主導権は国民ではなく、グローバル化した市場が握っており、政府はその圧力に引きずられるからだ。元々はEUと加盟国の間で生じた問題を指していたが、今や世界中で問題になっている。

 昨年の3月に、衆議院は一票格差の問題で違憲状態にあると、最高裁から指摘されているが、議員たちはそれを放置しているので、選挙が行われても選挙区によっては無効になるという。朝日新聞の世論調査でも、違憲のまま総選挙することには53%の国民が反対している。目先の選挙のことばかりに没頭し、政策を決められない政治家の怠慢は目に余る。日本では、財政赤字だけでなく、この民主主義の赤字がほかの国以上に深刻化していると、論説主幹は結んでいる。

 一票格差は、最大2.3倍であり農村部が都市部より大きくなっている。これは実際の意見よりも農村部の意見が大きく反映することを意味する。そしてまた高齢者の比率も増えている。政治家は選挙のことを考えると、既得権者である農家や高齢者の意見を尊重せざるを得なくなる。既得権者が若い世代に負担を押し付けても、若い世代の反対意見はなかなか通らない。

 世代間の不平等は、日本の社会保障制度で顕著だ。欧州では子を持つ母親に2票を与える提案をした国や、選挙権の年齢を引き下げた国もあるという。日本では、議論にさえなっておらず、全く情けないとしか言いようがない。しかしこれは政治家だけの問題ではなく、民主主義を支える国民の質の問題も孕んでいる。国民が自分たちの利益だけでなく自分たちの子供の世代のことまで良く考えて政策や政治家を選択しなければ、民主主義も国を滅ぼすことがあり得る。
 

2012年5月 3日 (木)

仙台旅行

 連休を使って仙台に旅行した。まだかみさんが行ったことがない街で、
折角だから東北で、出来れば温泉に一泊ということで急遽決まった。
1泊は仙台郊外の秋保温泉で、1泊は仙台駅近くのホテルに泊まる、2泊3日の小旅行。
今日から、東北地方も雨だが、旅行中は幸い、天気にも恵まれた。

 仙台に限らず地方の県庁所在地は、コンパクトで一通りの施設が揃っていて住みやすい。特に仙台は、街路樹が整備され緑が多く好きな街だ。市内観光に力を入れており、
1日乗り放題の巡回バスがあって、便利だった。

 初日は、新幹線で昼近くに着いたので、食事をしてから、伊達正宗の御廟である瑞鳳殿に行った。いつも見る神社仏閣とは違い、焼失後に新築再現された建物なので色合いが美しく、厳かながらも豪華であった。

 夕方、バスで郊外の秋保温泉に移動。翌朝に散歩した近くの磊々峡が素晴らしかった。桜が吹雪のように舞い、せせらぎの中でホトトギスが鳴いていた。

 秋保温泉からスタートして、バスツアーに乗って仙山線沿いの観光スポット巡りをした。修験道の祈祷をする慈眼寺、桜が満開だった秋保大滝、鳳鳴四十八滝、ニッカの仙台工場、平家の落人が建てた定義如来西方寺を回って仙台駅に戻った。自然を満喫した旅だった。夜は、市内を縦横に走るアーケード街を散策し、牛タンの夕食を楽しんだ。

 翌日は、終日、循環バスに乗って市内観光。青葉城址、県立博物館、県立美術館、大崎八幡宮、メディアテークなどを見て回る。大きな欅やメタセコイアの並木が美しい本当に素晴らしい街だった。大震災の傷跡は見る機会がなかったが、少なくとも仙台は観光客が溢れ活気に満ちていた。

 毎日、良く歩いた。3日間で、約5万歩だったので、普段の倍歩いたことになる。ゴルフと同じかそれ以上である。旅は勉強にもなるし、気分転換にもなるし、健康にも良いので最高だ。元気なうちに出来るだけ続けたい。

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