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2012年8月

2012年8月29日 (水)

「困った老人」はどっち?

 和田秀樹さんによれば、年をとると前頭葉の機能が衰え、意欲の低下、感情抑制機能の低下、判断力の低下、性格の先鋭化の4つの老化現象が起こるという。

 「自分の思い通りに行かずにムカッと来た不満がそのまま態度に現れるだとか、自分の非を注意されたことに腹を立ててキレるだとか、対人関係において柔軟なコミュニケーションが出来ないだとか、困った老人にありがちな癇癪や強情や偏屈やひがみっぽさのようなもの、これらはすべて前頭葉機能の老化が関わっていると考えられる。」

 「意地悪な性格の人はますますその部分が先鋭化し、四六時中誰かの悪口を言っているような『意地悪ばあさん』と化してしまうし、他人に対して攻撃的な傾向のある人はますます攻撃性を増し、年をとって丸くなるどころか逆に周囲との諍いが増えたりする。たとえば嫁姑関係にしても、年をとれば姑の意地悪な性格も少しは収まってくれるだろうと思っていたら、むしろ態度がエスカレートしたり扱いづらさが増すばかり――。そういう悩みは決して少なくない。」

 かなりな部分が当てはまる。田舎にいる80代後半の母親のことだ。嫁姑関係は結婚以来、ずっと良くない。自分の価値観で細かいことにグチグチと文句ばかり言っているからだ。母はもともと自己中でわがままな性格だから、苛めているという自覚がない。カミさんも最初は我慢していたが、年とともに愚痴が多くなった。年に数回の里帰りにはつき合ってくれ、表面上は母に合わせてくれているものの、自宅に帰ってからの機嫌はいつも最悪だ。

 ここ数年、母は足腰の病気で入退院を繰り返していて、車いすか杖を突いてしか歩けない。父がしっかりしていて元気だったので、食事や洗濯などあまり家事の心配はしていなかったが、90を超えて、さすがに衰えが目立ってきた。昨年から特に足が弱った。週二日それぞれ1時間程度はヘルパーさんが来ているが、1時間はあまりにも短い。父にとっては、ごみ出しや時々の買い物が大変のようだ。東京に住んでいる妹が月に2,3回行って面倒をみている。自分は、まだ働いていることもあり、月1,2度の電話が精一杯で、行くのは年3,4回。従って母は、自分に対しても、カミさんに対しても「優しくない」と不満を漏らしている。

 母は、常に痛みと闘っているせいか、頭はしっかりしている。こうでなければダメと凝り固まっているから、いつも不満で愚痴る。しかも自分は病気だから、周りの人間は助けるのが義務だと思っているから、病院でも家でも、父や妹、そしてカミさんに対して、色々やって貰っているにも拘らず、感謝の言葉の前にいつも文句が出てしまう。身内に対してだけでなく、看護師にも文句を言うし、陰で親戚の悪口を言うようになった。その悪い癖を直さないと、誰だって世話をするのが嫌になる。父も妹も可哀そうだし、結局は本人も損をする。

 今までは、自分は実家に行っても何もしないから文句を言われたことはない。しかし、父が動けなくなれば、自分も実家にもっと行って、二人を介護する事になるだろう。今後のことを考えると、いつか母にハッキリ言う必要があると思っていた。父も妹も蔭では母の悪口を言っていながら、母にはほとんど何も言って来なかった。それが当たり前のように、増長させてしまった自分も含めた周りの人間が悪い。

 お盆前にカミさんと実家に行ったばかりなのに、先週、母から今後のことで話したいことがあるので来てくれと、電話があった。1か月ほど前の電話で、「お前は冷たい。」「Kさん(カミさん)は、何か怒っているのか?私が悪いことを言ったのなら謝るから、本当のことを言ってくれ。」と言われたが、今まで通り、はぐらかしていた。丁度良い機会だからと覚悟して、土日で行ってきた。

 予想通りの修羅場になった。冷静に、「人に優しくしてもらいたかったら、まず自分が優しくしなければ」と言ったのだが、母はそんな自覚はないから、「私は優しくしてきた、何も文句なんか言っていない。」を繰り返すだけ。「なんでそんな酷いことを言うのか。お前はそんなに冷たい人間だったのか。皆で私をバカにして責めるのか。どうせ私だけが悪いんだ。死ねばいいんだ。」と泣きながら唇を震わせ、睨みつけ食って掛かる。こちらも、つい感情が昂ぶって、きつい言い方をしてしまった。母もこちらの言うことを悪い方に悪い方に採るから、話し合いにならない。「どうせ、私は産みの親ではないからね」と触れてはいけないことまで言う。「そんなことを言っているんじゃない。性格のことを言っているんだ。」「育ててもらったことは感謝しているし、面倒は見ると言っている。」と言っても最早聞く耳を持たない。

 母が言うように、本当は父も自分も激しい性格だが、我慢強いから普段はそんな顔を見せない。しかしストレスが溜まると、ある時突然キレて、激しく爆発する。「父親にそっくりだ」と母はのたもうた。「この家に嫁ぐことは皆に反対された。」と言うところまで言わせてしまった。母は、感情を抑制できなくなっているし、性格が先鋭化している。しかし実は自分も同じことをしているのではないか、同じように老化現象が始まったのではないかと、ふと思う。

 母は先に、部屋に籠ってしまったが、相当堪えたようだ。翌日は、平静を装っていたが、青ざめた顔で一睡もできなかったと、妹には話したらしい。父は、たまにお灸を据えるのも必要だから良かったよ、などと言うのだが、今さら本当に言う必要があったのかと悩む。言うべきことを言ったという達成感よりも、どうせ性格なんて今から変わりようがないのに、この先の人生がそんなに長くないのに、そこまで酷いショックを与え悲しませて、親に感謝しているなんて言えた義理か、とも思う。人の心に傷を残すことは、どんな理由であれ後味が悪い。

 親にもっと我慢してくれと言いつつも、逆に自分も老人になったのだからもっと我慢しない方がいいんだとも思う。言いたいことを明るく言い合えるざっくばらんな家庭を夢見るのだが、今からでも多少は可能だろうか。これからも、何事も無かったように、今までの曖昧な関係が続く可能性は高いが、小さな変化が生じることを祈る。

そしてまた、自分の子供たちやその家族に対して、自分自身が「困った老人」にならないようにしたいと思う。

2012年8月24日 (金)

知人の告別式

 会社の元同僚が亡くなった。1歳年下だからまだまだこれからだ。心筋梗塞だったそうだが、そういえば彼はかなり太っていて、いつも汗をかいていた。
定年間近なのに会社を辞め、家業を継いで商売をしていた。以前は時々会社にも寄って顔を見せていたが、そういえば最近は会っていなかった。いつも彼の方から声を掛けてくる気さくな人だった。それほど親密というわけではなかったが、何故か気になって出掛けた。

 参列者は20数人と少なかった。お通夜には、会社の人間も多少来たようだが、告別式はほとんど身内だけで、会社からはわずか3人だけだった。会社を離れると、お付き合いする範囲が小さくなるから、参列する人数がグッと減るのだろうか。おそらく自分の場合もそうなるだろう。何か淋しい気もするが、死んでしまえば関係ない。誰それが来て、悲しんでくれたということで、喜んで死ねるというわけではない。だから葬式なんて本当の身内だけでするのがいいのではと思う。最後まで周りの人間に手を煩わす必要はない。

 祭壇には、両手でVサインをして笑っている彼の遺影。彼らしいと言えば彼らしい。自分の場合、遺影はどうするのだろうかと、つい思った。最近はまともに写真を撮っていない。余りみっともないのは家族が可哀そうだ。写真を撮っておこうか。そういえば、自分が死んだ後は、誰と誰に伝えればよいか、家族に話しておく必要もありそうだ。して欲しいこともある。最近、流行っているというエンディング・ノートを買っておこう、などと考える。

 棺の中の彼は、スーツとネクタイだった。奥さんの考えで旅立ちはいつものようにとのことだったが、彼は現役だったからか。まだ働けと言われて、青ざめているような気もした。うちのカミさんは、どうするだろう。挨拶も上手く言えるだろうかと心配もした。

 今まではお客さんや同僚の身内の方の葬式に出ることが多かったが、今回は本人だ。これからは徐々にお付き合いした本人とのお別れが増えてくる。何か自分の葬式を観るような気分だった。

2012年8月18日 (土)

映画「ヒアアフター」を観る

 クリント・イーストウッド監督の映画というので、少々期待したのだが、テーマがテーマだけに、ちょっと盛り上がりに欠ける静かな映画だった。3つのストーリーが同時進行し、それがどのように繋がるのかというミステリー風の展開が見どころではあったが、あまり深く感動させるものはなかった。

 霊能者の男性と臨死体験者の女性と死んだ人に会いたい子供の3人が出会うことになるのだが、共通点は「死」に触れることで人生が変わったこと。死に立ち会って苦しい体験をするのだが、しかしその体験は周囲の人に理解されず、人間関係が上手く行かなくなる経験を持つ。そして3人が出会うことで、理解してくれる人、共感してくれる人の存在を知って「その後」は救われる。

 自分は、臨死体験は脳の作用だからあり得ると考えるが、死後の世界の存在も、死者と交信できるという霊能者の能力も信じてはいないから、素直には入り込めないストーリーではある。しかし「ヒアアフター」が、死んだ後の「来世」のことではなく、「今後」という意味ならば多少理解できそうだ。死を意識して「今後」どう生きるのかは誰にとっても重要なテーマだからだ。死ぬときは一人だが、生きるときは他人と関わって行かなければならない。だからこそ、理解してくれる人・共感してくれる人の存在は大切だと、感じた。

2012年8月16日 (木)

近代文明に内在する野蛮

 細見和之「アドルノの場所」みすず書房2004を読む。

 さしあたっての関心は、なぜ近代人権思想を軸とした啓蒙主義のお膝元のドイツで、それを真っ向から否定する「アウシュビッツ」が起こったのかということである。
著者が言うように、高度な近代文明がむき出しの野蛮に反転した姿を認識することは、人類の文明の歴史を問い直すうえで不可欠である。その背景に、反ユダヤ主義があるのは間違いないが、その歴史的展開を根底で支えた反ユダヤ主義の思想を、理論的に分析したのが、アドルノとホルクハイマー共著の「啓蒙の弁証法」1947年である。

 著者は、アドルノ等の記述が本質的に「アウシュビッツ」以前に止まっているという大きな問題を指摘しているが、政治的・社会的・経済的・精神分析的等の側面から分析し、「啓蒙のさまざまな限界」を確認した功績は大きいとしている。

■「思考の『遅れ』」の骨子

●歴史的背景
 ユダヤ人問題は、日本人にはわかりにくいが、近代以前のユダヤ人迫害は、新約聖書まで遡り、キリストを裏切ったユダヤ教徒への憎悪という宗教的なものであった。この宗教的な反ユダヤ主義が、19世紀後半に人種的な反ユダヤ主義に変わったのだと言う。

 19世紀のドイツにいたユダヤ人は2つのグループに分かれる。一つは、キリスト教に改宗しドイツに同化し、その一部は商業や金融業で成功したユダヤ人たち。もう一つは、圧倒的な人数を占める、ロシアからの難民でユダヤ教徒の貧しい東方ユダヤ人たち。ところが、19世紀後半に啓蒙主義に基づき、ユダヤ教徒に対する市民権を認める「政治的解放」が、実現したときに、これまでの宗教的な反ユダヤ主義に対し、ファシストたちが人種的な反ユダヤ主義を掲げ、これが民衆に支持された。

 アドルノやホルクハイマーも、マルクスやベンヤミン、ハイネやカフカたちと同様、成功した同化ユダヤ人の息子たちであるが、元々のキリスト教徒たちから差別を受けていた彼らでさえ、キリスト教社会・市民社会の秩序を乱す存在として東方ユダヤ人たちに酷薄のまなざしを向けていた。

●秩序を歪める者への不寛容
 市民社会の調和的秩序とは、あるいは「進歩」がもたらす「解放」とは、その過程において秩序を歪める者、進歩についてゆけない者への「不寛容さ」「暴力」「残虐さ」「抑圧」を不可避的に伴っている。それは特定の歴史的背景のもとにある秩序というのではなく、人間の社会一般に存在している秩序であると彼らは言う。

●成功したユダヤ人への民衆の妬み
 民衆運動レベルでの反ユダヤ主義を支えているのは、「不満のはけ口」であり、主体的に迫害行動を採っているのではなく、盲目的である。迫害者たち、市民社会の成員としてあくせくと競争社会を生き抜かねばならないが、彼らからみると、優雅な暮らしをしているユダヤ人たちは力もないのに幸福であり、働きもせずに生活の糧を得ていると映る。自らの願望像を「ユダヤ人」に投影し、かつそれを抑圧しているのだという。

●労働者を搾取するユダヤ商人のイメージ
 反ユダヤ主義の経済的根拠。賃金払いの原理を受け入れた労働者たちは、工業ブルジョアジーの搾取に対してではなく、賃金が低いのは商品が高すぎるからで、商業を仕切るユダヤ人のせいだと考え、自分たちの怒りをユダヤ人に振り向けた。ユダヤ人は贖罪の山羊となった。

●キリスト教のユダヤ教へのコンプレックス
 反ユダヤ主義の宗教的起源。ユダヤ教の精神は、過酷な現実をたえしのびながらあくまで、神と人間の絶対的差異を貫くのに対して、キリスト教はキリストという神=人を掲げ、愛の宗教を通じてユダヤ教の過酷さを和らげることによって、救済の確信を得る自然宗教に後退し、本当の意味での精神性を失った。そのユダヤ教の優位性への反発、憎悪、敵意が、自らを正当化するための迫害行為につながった。

●生理的拒否反応と抑圧された衝動の回帰
 アドルノらの議論にはフロイトの「投影理論」が組み込まれている。反ユダヤ主義者がユダヤ人に対して口にする生理的な拒否反応(イディオジンクラジー)アレルギー、差別が不当だと理屈では分かっていても生理的に受け付けないこと。一方生物の根底に存在する欲望・衝動=ミメーシスは、まずもって模倣=他者との一体化を通じて他者を認識しようとする衝動であるが、これが、その発露を抑圧されたとき、迫害という不気味なものとして回帰するという。
イディオジンクラジーは、自己保存に古代的形式であり、生命体が危機に際して起こす麻痺反応であるが、これを概念の立場から反省を加え、無意味なものと理解できるかどうかに、反ユダヤ主義からの社会の解放がかかっているという。

●自然を管理・支配する社会の苛酷さ
 自然はそれがもっぱら支配・抑圧の対象と見なされるとき、「恐るべき自然」として表象される。そして不意に災害をもたらしたり、あるいは怠惰や逸脱に耽らせたりする「恐るべき自然」を不断に管理・支配使用とする社会は、その当の自然と同様の苛酷さを帯びざるを得ない。それは社会秩序の墨守をすべてに優先させるとともに、個人の内部では「自己保存」を至上の原理とすることを強制する。ミメーシスは、この自然の管理・支配とは対極に位置する衝動である。
 タブーとして追放されたこの衝動を、役者やジプシーが体現するが故に、憧れると同時に侮蔑しようとする。

●競争原理ではない宥和された社会
イディオジンクラジーという口実がいかに無意味であるかを自覚することがない限り、文明の歴史は「自己保存の太古的形式から」一歩も進展していないことになる。
 文明の証としての自然の支配、自分自身の欲望の抑圧も含む支配、市民社会の競争原理とは別の原理に貫かれた社会のイメージ、「力なき幸福」がすべての成員に享受されているような「宥和された社会」のイメージが逆説的に呈示されている。

●思考への絶えざる反省と期待
 反ユダヤ主義の病的なものとは、投影的なふるまいそれ自体ではなく、そこにおいては反省が欠落していること。丸ごとの世界を誤りなく認識することは原理的に不可能であるが、この不可能性を絶えず反省によって意識されていることが肝心である。自らの指向を働かせることなく、中途半端な知識を切り貼りして、都合の良い世界像を作り上げる「教養人」の存在が、ファシズムの土壌に混入していた養分だった。
 期待なくして反省なく、反省なくして期待は存在しない。それは思考の自由の表と裏。
●一括思考に抵抗する者への違和感 
 誰も狂気とは思っていないにもかかわらず、客観的には狂気の沙汰としか言いようがない事態を現出させるのが、「一括思考」である。一括思考に抵抗し、システムの歯車の中においても、決して全体に還元され得ない差異として異和のきしみを発し続ける存在の象徴としてのユダヤ人にたいする反ユダヤ主義。
 
●出来事に遅れる思考
 思考と出来事の間には常に距離がある。思考は出来事に遅れる。出来事に内在しながら、しかも出来事に占拠されることなく、省察と期待を本旨とする思考はどのようにして出来事に向き合うことができるのかが問われる。

■まとめ
 なぜ「アウシュビッツ」が起こったのか。アドルノは様々な「反ユダヤ主義」の原因を分析しているが、特定の歴史的背景に起因するものでなく、近代文明に内在するという指摘が重要である。近代の競争社会は、内なる自然である欲望・衝動の支配・抑圧を前提とするが故に、自然は秩序を乱す「恐るべき自然」(生理的拒否反応)として現れる。社会は、その秩序を歪める者(ユダヤ人)に対し不寛容であり、暴力的にならざるを得ない。そして絶えず反省する理性により、恐るべき自然と宥和する社会が構想されねばならないというのだが、明確な答えはない。

 近代技術は、外なる自然の支配・抑圧を前提にしているが、その管理を超える「恐るべき自然」のしっぺ返しを食らう。それは人間が支配する以前よりももっと大きな災害を人間にもたらす。近代技術は、これを更に力で支配しねじ伏せようとするのだが、限界にきている。

 西洋近代文明のなかに、不寛容で暴力的なもの、爆発する衝動が埋め込まれており、それを理性だけで管理できない以上、アウシュビッツの再現はあり得るし、現に世界はいまだに、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の間で、戦争という巨大な暴力が行われている。

 今日、個人の自由・個人の欲望の解放・個人の幸福の追求、民主主義などの価値観は、人間の普遍的な価値であるかのように、当然のことのように受け入れられているが、西洋の近代合理主義思想や啓蒙主義の人権思想から生まれてきたものであり、西洋における歴史的出来事と切り離せない。西洋の哲学者が普遍的と言っても、それは西洋において一般的という意味に過ぎない。特に、ユダヤ教、キリスト教と切っても切れない関係、共通する価値観を含んでいる。日本やイスラム世界には通用しないものがある。

 哲学は、所詮、出来事に対する後追いの解釈だという気がする。その理屈が価値判断の正当性を証明するかのようだが、思考する前に出来事を肯定するか否定するかの価値判断がなされており、それを正当化するための理屈が用意されるのではないか。ところが価値判断には絶対的根拠はあり得ないから、絶えず批判に晒されるのだ。思考は、この構造に、自覚的でなければならないと思う。偏見から自由になることの困難さの自覚でもある。

2012年8月14日 (火)

川村記念美術館

 千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館に行ってきた。特設展示は、オリンピックに因んでなのか、英国のポップアートの巨匠、リチャード・ハミルトンの版画展だったが、そちらに興味があったわけではなく、写真で見た建物と庭が素晴らしかったので行ってみた。

 お盆休みということで、結構たくさんの人が来ており、レストランは5分か10分程度の予約待ちになる程だった。行ってみて分かったのは、大きな池や芝生広場のある広い素晴らしい庭園が市民に開放されていたこと。美術館もさることながら、この社会貢献への姿勢と努力には、さすがDICと感心した。

 美術館の建築・中庭・周囲の庭園は、上品で高級感のある造りで、メンテナンスも行き届いていて、とても感じが良かった。

 ハミルトンは、写真の加工やコラージュ、工業製品へのアイロニーが中心だが、やはりあまりピンと来なかった。日常との距離が近すぎるからだろうか。

 期待していなかったのだが常設展の方が良かった。20世紀美術に力を入れていて、ヨーロッパやアメリカの現代美術作品が充実していたが、現代の抽象美術はデザインに近づいており、面白いものはあったが、あまり感動しなかった。

 それよりも、むしろ作品の数は少ないが、レンブラントからルノワール、シャガールの近代絵画の本物が見られて良かった。特に、シャガールの色彩がきれいな夢の世界には感激した。大好きなセザンヌの作品はなかったが、シャガールに新しい魅力を感じた。

 美術館めぐりは、いろいろな場所を訪れることで気分転換になるだけでなく、新しい発見があるので楽しい。

映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を観た

 9.11で突然最愛の父親を亡くした少年オスカーが、父親の残した1本の鍵に最後のメッセージがあると信じて、それに合う鍵穴を求め、母親に黙ってニューヨーク中を探し回る。その旅を通じて少年は様々な人に出会い、悲しみを乗り越えていくという話で、実に感動的だった。

 少年はとても頭が良く、自分で色々なことを調べ知識を得ることが好きだが、行動面では慎重で臆病なところがあった。父親が、勇気を持たせるよう少年に課した「調査探検ゲーム」が、素晴らしかった。才能を生かしつつも、強制しなくても面白さから自主的に人と接触をさせ、成長させるという愛情に満ちたゲームだったから、少年にとっては本当に楽しかったに違いない。その体験が「鍵穴探し」にも役立った。必死の思いが、勇気を与え少年を行動的にした。父親の目論みは見事に成功した。素晴らしい父親だ。

 少年が心を開くきっかけを作ったのが、間借り人と称した口の利けない祖父。心にため込んだ思いを人に聞いてもらうことで人間は、ストレスを解消し生きていけるのだろう。

 最後の方で、母親から我慢して生きなくていいからと言われオスカーが、母親に初めて心を開くシーン。母親は、自分の想像以上に自分を愛しまた自分のために行動してくれる大きな存在だったことを知った時の驚きと喜びと安堵感が伝わった。

 旅の中で知り合った人々に書いた感謝の手紙のシーン。悲しみの中に生きるのは自分だけではなく、皆さまざまな苦しみ悲しみを抱えながら生きていることを知った時の共感。自分は一人ではないという安心感が、人の心を開き人と人の心をつなげる。

 そして最後に本当の父親のメッセージに出会うシーン。父親は、少年が成長して、きっとこうするだろうということを見抜いてメッセージを残していたのだ。最後のメッセージはなかったと、一旦は諦め納得した後だけに、喜びは何倍にもなって帰ってきた。自分のことのように心を揺さぶられた。

 少年オスカーを演じたトーマス・ホーンがいい。怖がりなくせに強がっている小生意気な少年、我慢を重ねてため込んだ感情を一挙に吐き出し人に心を開く少年を見事に演じていた。またサンドラ・ブロックが演じた、夫を失いさらに息子からも無視された母親の虚ろで悲しい表情が強く印象に残ったが、これがかなり重要な演出効果を持っていたことが後から分かるのだった。

 人生には必ず別れがある。その悲しみの乗り越え方を教えてくれる希望を与える映画だった。ところで「うるさくて、近い存在」とは、普通はどこにでもいる母親のことだが、「ありえないほど近い」というと、「心の中に生きる父親」のことなのだろうか?

2012年8月11日 (土)

近代思想の限界

 長谷川宏「新しいヘーゲル」(講談社現代新書1997)を友人から薦められて読んだ。

 始めは少々苦戦したが、最後の第5,6章「近代とはどういう時代か」「ヘーゲル以後」で、著者の問題意識が分かった。ヘーゲル哲学は西洋近代社会を支える近代哲学の集大成であり、現代哲学はヘーゲル批判から始まっている。近代文明は様々な矛盾を抱えているが、著者が大きな課題として取り上げるのは反近代のナチズムがなぜお膝元のドイツで支持され、なぜ近代哲学はそれを阻止できなかったのかである。まだ明確な答えは見つかっていないようだ。今だ自由で自立した近代的個が確立していないと言われる日本では、より一層深刻な課題であると思った。

■まず以下に要点をまとめる。

●ヘーゲルは難しいか
・日本人の西洋崇拝の念が、西洋哲学を分かりにくく難しいものに仕立てた。
・西洋哲学はキリスト教の支配や権威から解放され、人間世界の出来事を人間の言葉で人 間に向かって働きかけるものだから、難解である必要がない。
・難しく書こうとしたわけでなくても、読む者に難しく感じるのは西洋近代と日本近代との位相の落差。
・相手との対立点を際立たせることに力を込めることが西洋の対話。その流儀を哲学の方法として応用したのが弁証法。

●精神現象学
・絶対知とは、冷静客観的に、現実の総体をとらえ知ること、そういう精神の姿勢を指す。

・近代人として近代社会を生きることは、個人としての存在と社会的存在との間の抜き差しならぬ矛盾をあえて引き受けること。
・知には道徳や宗教のような現実に対する及び腰の姿勢は全くない。
・近代社会にあって、モノを知りモノを考える働きこそが、個の自由と自立を支える根本の力である。
・ヘーゲルは、「知は力なり」と宣言したベーコンの嫡流であり、「理性こそ社会発展の原動力」と考える啓蒙思想の同志である。

●世界の全体像
・西洋には、哲学も宗教も、始めから世界の全体を捉えようとする体系的思考があった。

・へーゲルは、理性は思考のうちにあるだけでなく自然や社会のうちにも宿ると考えた。

・論述が体系的だというだけではなく、世界の全体が体系的なものだと考えた。
・人間が自然を手段として利用するのは、自然そのものが手段として利用されるようなものだから。人間に支配されるべき存在。
・人間の活動やそれによって作り上げられた有形無形の産物を「精神」と呼ぶなら、精神は自然に勝る。
・自由な精神に対し、自然は必然と偶然のつながりだけの、理念が相応しからぬ形をとってあらわれたもの。

●人類の叡智
・芸術、学問、宗教は人間活動の最高位のものである。
・芸術作品は、芸術家個人によって作られるものでありながら、そこに同時に時代の共同精神が込められることによってこそ、真に芸術的な美しさを獲得できる。
・公共性に向かう共同体精神が、公共的な宗教や公共的な芸術を求める。
・精神はその内発的な発展によって、感覚的・直観的なギリシャ芸術から、自己の内面に還るロマン芸術へと展開した。
・精神の発展こそが歴史の実相であり、それを明確に位置づけるのが歴史哲学。
・哲学は、芸術の客観性、宗教の主観性を統一するもの。

●近代とはどういう時代か
・日本は西洋文明の物質面・制度面を吸収したが、西洋近代精神は吸収できなかった。
・西洋近代精神とは、規制の権威や価値観が通用しなくなった時に、自分自らの思考を頼りとして外界と向き合うこと。
・ルターの宗教改革は、権威への服従から脱し、自分の信仰に基づく神との対話を求めた。

・啓蒙主義は、聖書も神も抜きで、内面の主体的な思考を持って自然や精神に対峙する
・欲望や感情を抑制する理性の働きにより、個に共同体精神が宿らなければ、社会は混乱し、近代的な社会とはいえない。教育・教養・自己形成が必要である。
・フランス革命は、人間の内面性と自由の哲学を現実そのもののうちに広く行き渡らせた。

・西洋近代は日本では権威となり、その精神が根付くことはなかった。

●ヘーゲル以後
・具体的なもののつながりが、現実を内容豊かなものにしていく様を示したヘーゲル哲学が、西洋近代の向日的なオプティシズムの典型だとすれば、その向日性から逸脱する苦悩や情熱や悲嘆に眼を据えるキルケゴールの思想が、「現代」の登場に見合うものだと、サルトルはいう。
・現実の資本制社会の中で、人々は不自由と不平等にあえいでおり、ヘーゲルの言う人類の普遍的な解放は実現していないと考えた若きマルクスは、ヘーゲル哲学を、現実との格闘の中で鍛え上げて「現代思想」に組み替えた。
・社会の近代化・技術革新・選択の自由・個性尊重を支える近代思想の柱は、合理主義・人間主義・進歩主義だが、現代思想はその限界を打った。
・フロイトは、理性を逸脱する人間の内奥に住みつく不合理な暗い衝動に光を当てた。
・ハイデガーは、近代の技術や技術的思考を批判
・メルロ・ポンティは、生きた人間の身体は、モノではなく精神との複合体ととらえた。・レヴィ・ストロースは、特別視された近代文明に違和感を感じ、これを相対化。
・ナチズムは、西洋近代精神・人間性を否定。暴力こそ人を動かし、集団行動こそ団結の姿とした。
・アドルノは、なぜナチズムが個の自由と共同体精神に信頼をおく西洋近代のただ中に生じたのかと問う。「アウシュビッツ」は、近代思想を「嘲り笑う」歴史的事実。
・なぜ近代思想がナチズムへの抵抗の思想として有効な力を発揮できなかったのかが問われる。

■近代思想の限界について考える

 地球温暖化や原発事故や津波など、近代文明の行き詰まりを示すようなことが、相次いで起こっている。高さ10mの防潮堤でも津波を抑えることは出来なかった。人間は自然を支配し、制御できるという西洋近代思想の限界をしめす現実である。にも拘らず、もともと自然と共に生きるという思想を持っていた日本人なのに、経済至上主義ゆえに近代化の発想からの転換が出来ない。むしろ西洋では、護岸のコンクリートをはがして美しい自然の河川の姿を取り戻そうとしているのにである。(松本健一「コンクリートと政治」朝日新聞120811)

 ヘーゲルが示した「人間が支配すべき自然」像は、近代文明を根拠づけるものであったが、自然科学の成果を追認するものでもあった。しかし現代の自然科学では、自然世界は「人間が何をどう観測するかというやり方に応じて様々な顔を見せ、それを記述しようとすると確率的にならざるを得ない」不確定な存在であるという。(佐々木閑「犀の角たち」)神秘論に陥る必要はないが、人知を超えた畏怖すべき自然の存在を認めざるを得ない。大地震も完全には予測できない。分かっていないことは無限にあるにも拘らず、分かったような顔をして一部の知識だけで自然を支配できると思ったことが間違いであった。

 ヘーゲルも時代の子であったことは、ルターの宗教改革や啓蒙思想やフランス革命など時代の新しい流れに影響されていることからも分かる。それは批判すべきことではなく、その歴史的現実を知り、何が原動力なのかを考え、どこに向かおうとしているのかを考える姿勢や弁証法の思考方法は今なお有効だと思う。現代では、社会も科学も技術も複雑化しており、ヘーゲルのように一人で全体を把握することは不可能に近いが、著者も言うように、限界は意識しつつも周辺分野との関連について常に配慮しつつ、世界の全体像を構想しその中に位置づけようとする知の基本的な姿勢は大切である。

 しばしば思考が陥るのは、体系化を急ぐあまり、あいまいな部分を切り捨てることである。切り捨てられた部分が、思想にしっぺ返しをする。ヘーゲルそのものを読んでいないので、その哲学体系の壮大さは分からないが、マルクスが批判したように、それは「天界」のものであって、地上のありのままを直視しないがゆえに得られたものだったのではないか。しかも、現実世界は人間の解釈から逃れるかのように目まぐるしく変化していくから、これをフォローし続けるのは容易ではない。

 ヘーゲルは、理性に絶対的な信頼を置いているが、現代では、人間の理性は人間の身体や感情や無意識、個を取り巻く時代や社会から切り離されて、完全に自由で自立した存在とは考えられない。理性的でない事柄を無視すると、反動が起こりしっぺ返しとなる。ナチズムもその一つではないか。にも拘らず、集団ヒステリーであるファシズムに対抗できるのは、今のところ近代的な個でしかないということも重要である。ドイツでなぜナチズムを抑えられなかったのか。やはり近代思想に何か足りないものがあるということだろう。より包括的な現代思想が待たれるが、自分なりに少し勉強してみたい。

 近代的な個とは、あらゆるしがらみから自由になって自分の内面に還って自分で考える事だと言うが、日本人にとっては、いや自分にとってもそう容易ではない。集団の雰囲気に飲まれる傾向があるし、集団の中で異論を唱えるには勇気がいる。そもそも考える素材となる知識が圧倒的に不足しているので、すぐ専門家の意見に頼ろうとする。また読んだ本にすぐ影響されてしまう。それでもこうして一歩一歩、自分なりに考える経験を重ねていくしか自立した個を確立する方法はないのだと思う。

 久しぶりに哲学に触れた。きっかけを作ってくれた友人と長谷川先生に感謝。

2012年8月 1日 (水)

7月の読書メーター

7月の読書メーター
読んだ本の数:4冊
読んだページ数:1298ページ
ナイス数:56ナイス

■神様からひと言 (光文社文庫)
最初は、会社生活の厳しさ・辛さを思い起こさせるような重苦しさがあり、期待外れか?と思わせたが、主人公の凉平が「お客様相談室」に異動になり、個性的な上司や同僚に加え、タチの悪いクレーマーが登場するにつれ、加速度的に面白くなった。特に直属の上司の篠崎とヤクザとの対決は痛快で最高だ。凉平が謝罪のプロに成長すると共に社内の大きな問題が姿を現し、大きな波乱に向けて様々なエピソードが一気に収束する。何かと我慢が必要な会社生活だが、それを皮肉りながらもエールを送っている元気になれる小説だ。
読了日:07月22日 著者:荻原 浩
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/20743570

■ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書)
80年生まれの若い女性が、アメリカの名門大学で先生をしているというだけで素晴らしいことだが、その教え方、考え方が素晴らしい。単に学生の人気取りのために、面白いアクティブ・ラーニングを取り入れた訳ではなく、学んだことを自分なりの解釈で自分の言葉で表現する経験が将来役立つと考えてのことだ。そして日本史を「日本とは何なのか」を考えさせる、外交に貢献しうる歴史学として考えている。だから戦後の日本が保留してきた「日本とはどんな国?」という問い掛けへの答えを、読者自身が考えることを求めている。
読了日:07月05日 著者:北川 智子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/20310474

■ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~ (メディアワークス文庫)
3巻を初めて読んだ。古書にまつわる盗難などの事件を、古書店の若い美人店主が解決するという「本好き」だけの不思議な世界だが、引き込まれて一気に読んだ。実際の古書に登場する人物や言葉やストーリーが、事件の背後にあるもつれた人間関係の糸をほぐす鍵となっている。3話載っているが、第2話の子供の頃に読んだ絵本を探す主婦の話が一番感動的で思いがけずジーンときた。その絵本の中に主婦の両親との関係にまつわる心の秘密が隠されていた。本の中で見つけたことが、心の拠り所となりその後の人生を支えた。
読了日:07月03日 著者:三上延
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/20262248

■楊令伝 5 猩紅の章
70万の死者を出した方臘と童貫の壮絶な戦いが終わった。方臘の戦略を超えた捨て身の戦いに童貫は戸惑うが、その意味を理解して敵ながら方臘の非凡さを認める。そして自分が方臘と同じところに行かない限り決着はつかないことを悟る。このあたりの駆け引きが、南における戦いの正念場だ。呉用に「屈託がなさすぎる」と言わしめた方臘だが、どうしてやはり深いものを持っているようだ。だからこそ呉用は簡単には梁山泊に戻れない。/宋が北と南の戦いで、手を焼いている間に梁山泊は力を蓄えた。いよいよ宋と梁山泊の戦いが始まる。
読了日:07月01日 著者:北方 謙三
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/20198537


▼2012年7月の読書メーターまとめ詳細
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