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2012年8月16日 (木)

近代文明に内在する野蛮

 細見和之「アドルノの場所」みすず書房2004を読む。

 さしあたっての関心は、なぜ近代人権思想を軸とした啓蒙主義のお膝元のドイツで、それを真っ向から否定する「アウシュビッツ」が起こったのかということである。
著者が言うように、高度な近代文明がむき出しの野蛮に反転した姿を認識することは、人類の文明の歴史を問い直すうえで不可欠である。その背景に、反ユダヤ主義があるのは間違いないが、その歴史的展開を根底で支えた反ユダヤ主義の思想を、理論的に分析したのが、アドルノとホルクハイマー共著の「啓蒙の弁証法」1947年である。

 著者は、アドルノ等の記述が本質的に「アウシュビッツ」以前に止まっているという大きな問題を指摘しているが、政治的・社会的・経済的・精神分析的等の側面から分析し、「啓蒙のさまざまな限界」を確認した功績は大きいとしている。

■「思考の『遅れ』」の骨子

●歴史的背景
 ユダヤ人問題は、日本人にはわかりにくいが、近代以前のユダヤ人迫害は、新約聖書まで遡り、キリストを裏切ったユダヤ教徒への憎悪という宗教的なものであった。この宗教的な反ユダヤ主義が、19世紀後半に人種的な反ユダヤ主義に変わったのだと言う。

 19世紀のドイツにいたユダヤ人は2つのグループに分かれる。一つは、キリスト教に改宗しドイツに同化し、その一部は商業や金融業で成功したユダヤ人たち。もう一つは、圧倒的な人数を占める、ロシアからの難民でユダヤ教徒の貧しい東方ユダヤ人たち。ところが、19世紀後半に啓蒙主義に基づき、ユダヤ教徒に対する市民権を認める「政治的解放」が、実現したときに、これまでの宗教的な反ユダヤ主義に対し、ファシストたちが人種的な反ユダヤ主義を掲げ、これが民衆に支持された。

 アドルノやホルクハイマーも、マルクスやベンヤミン、ハイネやカフカたちと同様、成功した同化ユダヤ人の息子たちであるが、元々のキリスト教徒たちから差別を受けていた彼らでさえ、キリスト教社会・市民社会の秩序を乱す存在として東方ユダヤ人たちに酷薄のまなざしを向けていた。

●秩序を歪める者への不寛容
 市民社会の調和的秩序とは、あるいは「進歩」がもたらす「解放」とは、その過程において秩序を歪める者、進歩についてゆけない者への「不寛容さ」「暴力」「残虐さ」「抑圧」を不可避的に伴っている。それは特定の歴史的背景のもとにある秩序というのではなく、人間の社会一般に存在している秩序であると彼らは言う。

●成功したユダヤ人への民衆の妬み
 民衆運動レベルでの反ユダヤ主義を支えているのは、「不満のはけ口」であり、主体的に迫害行動を採っているのではなく、盲目的である。迫害者たち、市民社会の成員としてあくせくと競争社会を生き抜かねばならないが、彼らからみると、優雅な暮らしをしているユダヤ人たちは力もないのに幸福であり、働きもせずに生活の糧を得ていると映る。自らの願望像を「ユダヤ人」に投影し、かつそれを抑圧しているのだという。

●労働者を搾取するユダヤ商人のイメージ
 反ユダヤ主義の経済的根拠。賃金払いの原理を受け入れた労働者たちは、工業ブルジョアジーの搾取に対してではなく、賃金が低いのは商品が高すぎるからで、商業を仕切るユダヤ人のせいだと考え、自分たちの怒りをユダヤ人に振り向けた。ユダヤ人は贖罪の山羊となった。

●キリスト教のユダヤ教へのコンプレックス
 反ユダヤ主義の宗教的起源。ユダヤ教の精神は、過酷な現実をたえしのびながらあくまで、神と人間の絶対的差異を貫くのに対して、キリスト教はキリストという神=人を掲げ、愛の宗教を通じてユダヤ教の過酷さを和らげることによって、救済の確信を得る自然宗教に後退し、本当の意味での精神性を失った。そのユダヤ教の優位性への反発、憎悪、敵意が、自らを正当化するための迫害行為につながった。

●生理的拒否反応と抑圧された衝動の回帰
 アドルノらの議論にはフロイトの「投影理論」が組み込まれている。反ユダヤ主義者がユダヤ人に対して口にする生理的な拒否反応(イディオジンクラジー)アレルギー、差別が不当だと理屈では分かっていても生理的に受け付けないこと。一方生物の根底に存在する欲望・衝動=ミメーシスは、まずもって模倣=他者との一体化を通じて他者を認識しようとする衝動であるが、これが、その発露を抑圧されたとき、迫害という不気味なものとして回帰するという。
イディオジンクラジーは、自己保存に古代的形式であり、生命体が危機に際して起こす麻痺反応であるが、これを概念の立場から反省を加え、無意味なものと理解できるかどうかに、反ユダヤ主義からの社会の解放がかかっているという。

●自然を管理・支配する社会の苛酷さ
 自然はそれがもっぱら支配・抑圧の対象と見なされるとき、「恐るべき自然」として表象される。そして不意に災害をもたらしたり、あるいは怠惰や逸脱に耽らせたりする「恐るべき自然」を不断に管理・支配使用とする社会は、その当の自然と同様の苛酷さを帯びざるを得ない。それは社会秩序の墨守をすべてに優先させるとともに、個人の内部では「自己保存」を至上の原理とすることを強制する。ミメーシスは、この自然の管理・支配とは対極に位置する衝動である。
 タブーとして追放されたこの衝動を、役者やジプシーが体現するが故に、憧れると同時に侮蔑しようとする。

●競争原理ではない宥和された社会
イディオジンクラジーという口実がいかに無意味であるかを自覚することがない限り、文明の歴史は「自己保存の太古的形式から」一歩も進展していないことになる。
 文明の証としての自然の支配、自分自身の欲望の抑圧も含む支配、市民社会の競争原理とは別の原理に貫かれた社会のイメージ、「力なき幸福」がすべての成員に享受されているような「宥和された社会」のイメージが逆説的に呈示されている。

●思考への絶えざる反省と期待
 反ユダヤ主義の病的なものとは、投影的なふるまいそれ自体ではなく、そこにおいては反省が欠落していること。丸ごとの世界を誤りなく認識することは原理的に不可能であるが、この不可能性を絶えず反省によって意識されていることが肝心である。自らの指向を働かせることなく、中途半端な知識を切り貼りして、都合の良い世界像を作り上げる「教養人」の存在が、ファシズムの土壌に混入していた養分だった。
 期待なくして反省なく、反省なくして期待は存在しない。それは思考の自由の表と裏。
●一括思考に抵抗する者への違和感 
 誰も狂気とは思っていないにもかかわらず、客観的には狂気の沙汰としか言いようがない事態を現出させるのが、「一括思考」である。一括思考に抵抗し、システムの歯車の中においても、決して全体に還元され得ない差異として異和のきしみを発し続ける存在の象徴としてのユダヤ人にたいする反ユダヤ主義。
 
●出来事に遅れる思考
 思考と出来事の間には常に距離がある。思考は出来事に遅れる。出来事に内在しながら、しかも出来事に占拠されることなく、省察と期待を本旨とする思考はどのようにして出来事に向き合うことができるのかが問われる。

■まとめ
 なぜ「アウシュビッツ」が起こったのか。アドルノは様々な「反ユダヤ主義」の原因を分析しているが、特定の歴史的背景に起因するものでなく、近代文明に内在するという指摘が重要である。近代の競争社会は、内なる自然である欲望・衝動の支配・抑圧を前提とするが故に、自然は秩序を乱す「恐るべき自然」(生理的拒否反応)として現れる。社会は、その秩序を歪める者(ユダヤ人)に対し不寛容であり、暴力的にならざるを得ない。そして絶えず反省する理性により、恐るべき自然と宥和する社会が構想されねばならないというのだが、明確な答えはない。

 近代技術は、外なる自然の支配・抑圧を前提にしているが、その管理を超える「恐るべき自然」のしっぺ返しを食らう。それは人間が支配する以前よりももっと大きな災害を人間にもたらす。近代技術は、これを更に力で支配しねじ伏せようとするのだが、限界にきている。

 西洋近代文明のなかに、不寛容で暴力的なもの、爆発する衝動が埋め込まれており、それを理性だけで管理できない以上、アウシュビッツの再現はあり得るし、現に世界はいまだに、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の間で、戦争という巨大な暴力が行われている。

 今日、個人の自由・個人の欲望の解放・個人の幸福の追求、民主主義などの価値観は、人間の普遍的な価値であるかのように、当然のことのように受け入れられているが、西洋の近代合理主義思想や啓蒙主義の人権思想から生まれてきたものであり、西洋における歴史的出来事と切り離せない。西洋の哲学者が普遍的と言っても、それは西洋において一般的という意味に過ぎない。特に、ユダヤ教、キリスト教と切っても切れない関係、共通する価値観を含んでいる。日本やイスラム世界には通用しないものがある。

 哲学は、所詮、出来事に対する後追いの解釈だという気がする。その理屈が価値判断の正当性を証明するかのようだが、思考する前に出来事を肯定するか否定するかの価値判断がなされており、それを正当化するための理屈が用意されるのではないか。ところが価値判断には絶対的根拠はあり得ないから、絶えず批判に晒されるのだ。思考は、この構造に、自覚的でなければならないと思う。偏見から自由になることの困難さの自覚でもある。

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