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2012年10月 8日 (月)

「非常時のことば」を読む

高橋源一郎「非常時のことば」(朝日新聞出版2012)を読んだ。
3.11の震災後に、ことばや文章に対する感じ方・考え方がどう変化したかについて書いているのだが、共感する指摘が2点あった。

 1点目は、普段私たちが喋ったり書いたりしている時、実はすべて自分で考えたことを喋ったり書いたりしているわけでなく、ほとんど教わったり学んだりしたことだということ。こういう場合は、こういう風に答えるということもほとんど無意識に行われる。そして、非常時の場合には、先行事例がないから「ことば」を失う。事例がないのだから自分で考えるしかない。よりどころは自分だ。流されないように努力しながら、立ち止まって辺りを冷静に眺め、自分の声を聞くことだ。ことば以前の何かを見つけることだ。それは難しいことだが、書くことがそれを発見することに繋がるという意見に共感した。

 そうやって新しいことばや新しい思想が、生み出されてくるのだろうと思う。しかし、私のような一般人にとっては、かなり難しいことだ。出来ることは、いろいろな他者の意見に耳を傾け、自分にあった思想、自分が信じられる世界観を見つけることだ。本を読むのは、そうした理由からだ。

 著者が、ジャン・ジュネや石牟礼美智子の文章に感じたものは、同情などではなく、悲惨な運命の人々にも、一人一人にかけがえのない豊かな人生があったことを書き留めることによる「祈祷の朗唱」だという。少々、分かりにくいが、それが逆説的に悲劇の大きさを感じさせ、悲劇が繰り返されないことへの『祈り』を感じさせるということなのではないだろうか。

 2点目は、次の文章に集約されている。

「どんな巨大な悲劇も、しょせん『他人事』と言う権利は誰もが持っている。にもかかわらず、なぜ『他人』の運命を無視し続けることができないのか。それはその『他人』はもしかしたら『僕』なのかもしれないからだ。」

 他人の中には、ことばの通じない外国人や子供も含まれている。現在の大人たちは、現在の子供たちの未来の世界を想像することなく、自分たちの利益のために負担を負わせようとしている。他人への思いが至らない身勝手な思想は、震災後の私たちには受け入れられなくなっているという著者の意見に賛同する。

 自分の利益にしか関心のない人は、自分の信じる世界しか見ることが出来ず、他人の世界があることに思い至らない。極端な場合には、その世界の存在を認めず、自分の世界を批判する発言を許さない。ことばを不自由なものにするそういう風潮は恐ろしいが、そういう「ことば」への抵抗がある中でも、「ことば」を発して行かなければ画一的な世界観に封じ込められてしまう。

 
 人間性は、生まれながら、あるいは環境の中で自然に身につくものではなく、同じ文化共同体の中で共通する教養を身に付け、利害関係を超えた自由な議論を通じて、思想を多元的で豊かにする努力の内にあるものである、とするアーレントの思想を思い浮かべた。

 不自由な社会の風潮の中で、公的に責任ある発言をすることも、一般人には難しいことだが、自分に合った思想を選択することと同時に、他人の世界を排除する思想を選択しないことは出来そうだ。

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