文化・芸術

2014年4月29日 (火)

「日本絵画の魅惑」展を観た

 出光美術館で「日本絵画の魅惑」展を観た。

 鎌倉時代の絵巻から江戸時代の浮世絵や琳派に至る83点の絵画と30点の工芸品が、ジャンルごとにまとめられていて分かり易かった。絵巻は「アニメーションの源流」と解説されていたが、絵巻の絵の描き方が昔見た紙芝居の絵に似ているような気がした。

 今回の収穫は、長谷川等伯の「松に鴉・柳に白鷺図屏風」を見られたことと、仙厓の紙本墨絵を8点見られたこと。

 等伯の絵は、狩野派の華麗でやや型にはまった静的な感じに対し、墨の濃淡だけで描いたシンプルな線が力強くダイナミックで、静かだが生き生きとしていて、とても感動的だった。現代に通じる日本絵画の斬新さが、そこには確かに感じられた。

 仙厓の絵は、以前「○△□」を見たことがあったが、初めてたくさん見られ、改めて彼の作品の良さが分かった。門徒の悩みに絵で答えているのだが、そこには直接的な答えはなく禅問答のようで面白い。暗示的な絵はどこかユーモラスで、悩みなんか笑い飛ばせと言っているかのようで楽しかった。

2013年12月24日 (火)

「小磯良平版画展」を観た

 清楚な女性像を中心としたリトグラフが29点。リトグラフのことを余りよく知らなかったが、クレヨンのようなもので描くらしい。版画なのに、デッサンのタッチがほとんどそのまま表現されているのに驚かされた。それが非常に柔らかな印象を与え、女性像にマッチしていた。

 デッサンの正確さにも驚かされた。美しい形には微塵の狂いもない印象だが、写真のようにすべての細部まで描き切っているわけではない。焦点だけが細かく、その他はザックリと描いているのだが、正確な輪郭と大まかな線の集積による陰影が、女性の存在感と同時に柔和で優しい情感を漂わせていた。水彩画のような淡い色付けも、女性の優しさを表現していて素晴らしかった。表現方法が、表現対象の持っている情感を見事に引き出していると言ったらいいのだろうか。

 女性だけでなく、3点ほど人形を描いたものがあった。人形は人形らしく描かれているが、女性モデルがいなくても表現方法の練習にはなるようだ。何やら無性に静物のデッサンをして見たくなった。

2013年2月14日 (木)

「会田誠展」を観た

 「天才でごめんなさい」と銘打った会田誠の美術展に行ってきた。彼は実に様々な題材・手法・素材を用いて、自由奔放な表現活動をしている。それらが凄い作品なのか、思いつきのお遊びなのか、真面目なのか、ふざけているのか良く分からない。確かに面白いのだけれど、支離滅裂な感じで何を言いたいのか良く分からないと思うのは、観る者が凡人だからか。

 「美術は思想ではなく表面だ」というようなことを本人が言っているのだから、作品に深い意味はないのだろう。面白く感じればそれでいいのかも知れない。ただ、全体を通して感じられるのは、常識ではありえない組み合わせによる異化効果だ。

 日本の伝統と現代の融合、上品なものと下品なもの対比、シリアスなものとポップなものとの混在などがかなり意図的に組み合わされている。浮世絵・屏風絵・火炎の額縁・盆栽・花鳥風月などと、現代のアニメ・漫画・TV・ネット・美少女・エログロ・怪獣・広告チラシなどが、一見、馴染んだように組み合わされているが、よく見ると違和感だらけなのだ。

 気に入ったのは襖を使ったたくさんの屏風絵。特に良かったのは、銀屏風に描かれた「電信柱とカラス」という大作。銀に黒の色彩、大胆な構図、濃淡による遠近法、確かな技術に裏付けられた対象の繊細な描写。何やら不吉で廃墟のような侘しさを感じる題材なのに、壮大な山水画のような風格がある。きっちりと既成の美学に収まっているように見えて、内容は異端。そのアンバランス、不安定感が心を揺さぶる。

 完成度が高いものから、単なる思い付きとしか思えないものまで、その振幅の広さにもついていけない。やはり天才なのだろうか?

2012年8月14日 (火)

川村記念美術館

 千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館に行ってきた。特設展示は、オリンピックに因んでなのか、英国のポップアートの巨匠、リチャード・ハミルトンの版画展だったが、そちらに興味があったわけではなく、写真で見た建物と庭が素晴らしかったので行ってみた。

 お盆休みということで、結構たくさんの人が来ており、レストランは5分か10分程度の予約待ちになる程だった。行ってみて分かったのは、大きな池や芝生広場のある広い素晴らしい庭園が市民に開放されていたこと。美術館もさることながら、この社会貢献への姿勢と努力には、さすがDICと感心した。

 美術館の建築・中庭・周囲の庭園は、上品で高級感のある造りで、メンテナンスも行き届いていて、とても感じが良かった。

 ハミルトンは、写真の加工やコラージュ、工業製品へのアイロニーが中心だが、やはりあまりピンと来なかった。日常との距離が近すぎるからだろうか。

 期待していなかったのだが常設展の方が良かった。20世紀美術に力を入れていて、ヨーロッパやアメリカの現代美術作品が充実していたが、現代の抽象美術はデザインに近づいており、面白いものはあったが、あまり感動しなかった。

 それよりも、むしろ作品の数は少ないが、レンブラントからルノワール、シャガールの近代絵画の本物が見られて良かった。特に、シャガールの色彩がきれいな夢の世界には感激した。大好きなセザンヌの作品はなかったが、シャガールに新しい魅力を感じた。

 美術館めぐりは、いろいろな場所を訪れることで気分転換になるだけでなく、新しい発見があるので楽しい。

2012年5月13日 (日)

セザンヌ展を観る

 先週、国立新美術館でセザンヌ展「パリとプロヴァンス」を観た。昔から一番好きな画家だったが、久し振りに本物を、しかも約90点もの数をまとめて見ることが出来、改めて感動した。セザンヌの絵は、感覚的に美しいというだけでなく、どこか理知的なイメージが漂う。それが自分の好みにも合っているのだが、それが一体どこから来るものなのか少し考えてみた。セザンヌの絵の特徴として思いつくのは、構図、色使い、筆致、そして全体的なイメージだ。

 先ず構図だが、垂直・水平の線や面的な要素は、これ以上ないほどにバランスが突き詰められている。しかし単調なバランスではなく、斜めの線や曲線が混じり、安定感の中にもどこかに動きを感じさせる。描かれる対象の良さは取り込みながらも、画家の画面構成の強い意志を感じる。

 色使いについては、肖像画に代表される古典的な絵画とは違い、絵の具を塗り込めたような重苦しさがない。印象派の影響もあり、色も明るく濁っていない。光の効果も十分に考えられている。しかし色や光が前面に出ることはなく、適度に抑えられているため、落ち着きを感じる。色の配置のバランスもいい。

 筆使いは、短かく太い斜めの筆跡で全体を覆う「構築的筆致」と呼ばれる独特の手法で、全体が柔らかく優しい印象になっている。このタッチで描かれたサント・ヴィクトワール山は自分の最も好きな一枚だったのだが、今回気づいたのは、晩年の作品ではこの筆跡は見られず、もう少し大きな破片のような面の積み重ねになっていたことだ。

 全体のイメージは、晩年の方が対象を描写しながらも、細かい所は捨象し抽象度が進んでいる。にも拘らず、同じサント・ヴィクトワール山で晩年のものは、よりおおらかでダイナミックでのびのびしている感じがして、こちらの方が今はシックリ感じる。対象のディテールから解放されながらも、対象の持つ存在感は失われていないから、かえって強い印象を与える。それでいて油彩とは思えない水彩のような軽やかさも持っている。

 セザンヌが亡くなる1906年に描かれた人物画である「庭師ヴァリエ」でも、ディテールは顔の表情含めて何も書かれていないにもかかわらず、実に生き生きしているのが不思議だ。この対象の存在感が、抽象絵画では得られない魅力だと思う。このような存在感は写真のように忠実に描いたからと言って得られるものではない。

 そもそも近代の絵画は、写真との相克の中から新しい生きる道を切り開いてきたと言える。カメラの原理は17世紀からあったようだが、その光学的映像を記録する方法がなかった。まさにセザンヌが生まれた1839年に初めて映像の記録方法が考案され、これを足がかりとして、銀塩写真記録法の普及が始まったようである。この写真の普及が肖像画などを生業としていた画家を失業の危機に陥れた。

 写真と同じことをしていては飯は食えなくなったのだ。写真のような対象の正確さを追及しても、その苦労は認められたとしても、写真に勝てるはずもないから意味がない。その危機感の中から印象派が生まれたのだと、モノの本に書いてあった。

 人の認識は関心や価値観によって変わる。同じものを見ても違うイメージを見ている。知識や観察度合いや見る目によってもイメージは変わる。その新しいイメージを対象から抽出して記録するのが近代の絵画というものかもしれない。むしろ人間が感じた感覚・印象・イメージに忠実に記録することだ。これが、展覧会の解説にあったセザンヌの言う「感覚の実現」ということなのではないか。

 展覧会は、パリとプロヴァンスというセザンヌゆかりの北と南の土地の対比の中から、作品の軌跡を捉え直そうという企画だった。1839年プロヴァンス生まれのセザンヌは、1860年代のはじめに銀行家の父親の反対を押し切ってパリに出て、画家としての修業を始めるが、余りパッとしない。

  70年代に登場した印象派の影響を受け古典的な絵画から離れるが、セザンヌは印象派の感覚だけの絵画に満足しなかった。新しい絵画を生み出すべく奮闘するが評価は得られず、80年代に父親の死を契機にプロヴァンスに戻り孤独なまま絵を続ける。その後ようやく高い評価を得るようになったが、妻との関係も含め相当な苦労を重ねたようだ。

そんな人間セザンヌの履歴も今回初めて知ることができ、また一段とセザンヌを好きになった。

 

2012年3月25日 (日)

篆刻教室

  以前から興味を持っていた篆刻の一日教室が近所であったので、行ってきた。
生徒は20人ほどで、ほとんどが同世代の男女。若い人はほんのわずか。
先生は中国人の張大順さん、50歳。中国でも日本でも書と篆刻で有名な方だそうだ。
いろんな賞を受賞し、古代文字の本も出されている。日本に留学して帰国し、現在は日本に暮らしている方だ。気さくでほめ上手なとても優しい先生だった。

  午前の2時間は、理論編。印鑑と篆刻の違いを、分かりやすく解説してくれた。
要するに実用品から発展した芸術だが、使われる文字は篆書と呼ばれる中国の古い漢字。まさに漢の時代以前の文字。篆刻が発展したのは明や清の時代だそうだ。
 
篆刻の基本は「七分書き、三分彫る」と言われ、文字を選んでデザインをするのが主で、彫るのは従。先生の様々な種類の作品事例を見ながら説明を受けた。兎に角、文字の美しさとバランスが素晴らしい。以前、カミさんと行った古河の街で見つけて入った篆刻美術館ですっかり虜になった理由だ。

午後からは実践編。好きな文字を選ぶのだが、無難なところで名字の二文字にした。正方形の石材なので縦長の小篆文字を選んでスケッチした。それを先生が、筆でサラサラと書いてくれた。それがまた実に美しい。それをコピーして裏返しして石材に貼り付け上からマジックインクで塗ると石材に逆字が転写された。

  いよいよ彫刻。刀の使い方を教えてもらい、先生の実演を見てから実践に入った。先生は一文字を10分位で彫ってしまった。朱肉につけて押印すると、美しい文字が浮かび上がる。皆、歓声を上げて拍手する。

  初めてとはいえ、余りにも思うように彫れなくてイライラしてしまう。1時間半ほど悪戦苦闘して、何とか一通り彫ったのだが、朱肉をつけて押印すると、元の文字とは似ても似つかず何とも様になっていない。細い線を残さなくてはいけないのだが、なかなか細く削れないし深く削れない。ちょっと細く削ろうとすると文字の一部が切れてしまう。

  何回か繰り返してから、最後に先生に見てもらう。「初めてでこれ位できるなら、少しやればきっと上手くなるよ」と褒めて頂きいい気持にさせてもらった。先生がザクザクと気持ち良い音を立ててチョッと手を加えただけで、見違えるようにシャープな線に生まれ変わった。切れてしまった線は元に戻らぬものの、何とか見られるものになって感激した。

  大変満足したのだが、ただ元の文字は先生に書いてもらったので、自分の作品とは言えない。やはり文字をデザイン出来るようになりたい。篆刻の前に先ず書道を習いたいと強く思った。小学生の頃、少し習ったので、多少は出来るつもりだが、仕事をするようになってから字が汚くなったし、年賀状を一部の人には筆で書いているのだが、いつもバランスが取れず嫌になっているからでもある。

シニアライフの一つの目標を確認出来た楽しい一日だった。

2011年6月 1日 (水)

映画「アジャストメント」を観た

TVで宣伝していて面白そうだったので、久し振りに映画を見にいった。
マット・デイモン主演の「アジャストメント」だが、余り面白くなかった。
何故なのか、考えてみる。

勿論、涙が出るほどの感動を、この映画に期待していた訳ではない。期待していたのはタイトルが連想させる「運命を操作する方法」の斬新なアイディア、未体験の刺激的なシーン、ワクワクさせるストーリー展開だ。でも全てが地味でチャチだった。
きっと原作のストーリーが良くないのだろう。

メッセージはシンプルで、「強い意志があれば、運命は変えられる」と言うことだろうが、それほどすごい意志と言えるのか?こんなに簡単に変えられるのは運命と言えるのか?人間の意志では変えられないからこそ運命と言うのではなかったのか。

運命を決めているのは超自然的な力のはずだが、それを何でサラリーマンみたいな連中が監視しているのか。大統領になることを運命付けられた男が、恋をしたくらいで道を誤るのか?一人の男の運命を、何で監視員は大勢の悪の軍団のようなみたいな男たちを使って変えさせまいとしているのか。
空想世界なら、「マトリックス」のようなもっと迫力のある未知の世界を描いて欲しかった。夢の中での夢に入り込むという世界を描いた「インセプション」の方が、まだアイディアは良かった。複雑すぎてよく分からなかったが。

ところで運命を信じるのかと問われれば、自分はNOだ。世の中の出来事は全てあらかじめ決まっており、偶然ではなく必然であり、人間の意志すらもそこで発動されるように決まっていると言うわけだ。でもそう考えることで、活きる力が湧くだろうか?緩い因果関係はあったとしても、偶然にも支配されているのが世の中で、そこに意志の入る余地が在ると考えた方が活きる意味が生まれるのではないのか。

お薦め本

  • 鈴木亘: 「財政危機と社会保障」
  • 波頭亮: 「成熟日本への進路」
  • 中野剛志: TPP亡国論
  • 増田悦佐: 日本と世界を揺り動かす物凄いこと
  • 古賀茂明: 日本中枢の崩壊

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